旅するように学ぶ

仕事のこと、夫婦のこと、子育てのこと。日々感じたことや学びをつれづれと。

社会が変わる時はオセロのように。

今の認可保育園に通って3年目になった。

 

2年間、送りは私、迎えは夫という基本スタイルでやってきて、送りをやっているパパは2~3人、基本担当として迎えに来ているパパはうちの夫ただ1人だった。それもあって、夫はなんとなく先生たちの間でも、ママたちの間でも知られる存在で「パパがんばってますよね!」みたいなことを言われたり、すっかりイクメンブランディングに成功していた夫。

 

そんな園に異変が起きたのは今年の4月。

2月からお迎え係をバトンタッチしていた私は驚くことになる。お迎えのパパが増えてる!!!!毎日顔を見るパパ、たまに見る(この、たまにの頻度があがった)パパが何人もいるのだ。久しぶりに朝の送りに行ってみたら朝のパパの人数も増えていた。

 

息子が生まれて3年。電車に乗ればいまだに周りの目に気を張るし、待機児童問題も進んでいるようには体感できない。子育てと仕事の両立も大変なことには変わりがない。

 

だけど、イクメンブームから、イクボスブームを経て、社会はほんのちょっとづつ変わってきているのかもしれない。見えないところでもう変化は始まっているのかもしれない。そんな風に思った出来事だった。

 

まだ、社会の当たり前は「お母さんが子育て」「お母さんがお迎え」だと思う。

だけど、オセロの白と黒のように「夫婦で子育て」や「パパもお迎え」という陣地はじわじわ増えているとしたら、それがいつかひっくり返る日がいつか来る。

 

社会を変えるために、声をあげ、立ち上がることは大切だ。

だけど、それだけでは社会は変わらない。

 

オセロのように最後に白と黒をひっくり返すのは、声をあげることがなくても、残業をやめて保育園にお迎えに行く。自分の生活の中でアクションをとる人たちなのかもしれない。

 

こうなったらいいな。

こんな社会にしたい。

そう思った時、自分が願う未来に向けてまずは自分が実践する、アクションする、ということは実は社会を変えることなのかもしれない。

 

そんな風にお迎えに奮闘するパパたちにエールを送りつつ、自分自身が子育てと仕事の両立に奮闘していることも、子育てをしながら男女ともに楽しく、当たり前に、働ける。そんな未来につながったらいいなと思うのでした。


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息子と歩く保育園への行き帰り。こんな風景もいつか懐かしく思い出す日がくるんだろうな。

新しいことを始める時の違和感は、万年筆の使い始めと似ている。

万年筆を使うようになって2年がたとうとしている。

それまでは10年以上、超極細→スタイルフィットのブルーブラック0. 28を使っていて、これを超えるペンはないと思っていたのだけど、2年くらい前に万年筆を使い始めたらその滑らかな書き心地が気持ちよすぎてメインのペンが万年筆にスイッチする事態となった。

 

そして最近新しい万年筆を導入した。万年筆は書き心地はとてもよい。だけど、個人的な好みは細字なのだ。でも、細字の万年筆といっても太さは1.0くらい。そんな時、0.2のカートリッジ式の万年筆を発見した。気になったけど残念ながら、試し書きができるようにはなっていなかった。簡易万年筆タイプで、普通にボールペンを買うのと変わらないくらいの金額だったから、試してみようと思って買ってみることに。

 

初日、苦戦した。

ペンの角度が定まらず全然書けなかった。万年筆ってこんなに書くのが難しかったっけと戸惑い、楽しみにしていた新しい万年筆でうまく書くことができなくてかなりがっかりした。

それから数日、なかなか思うように書けずに、1~2行試しては、あきらめて普段使いの万年筆に切り替えるようになっていた。

それが、1週間くらいたつと、この角度だ、とすんなり書き始められるようになり、その角度をキープして書けるようになってきた。やっぱり細字はいいなぁと思ったけれど、普段使いのものに比べると書き心地が固めで、うーん、せっかく万年筆を使うならやっぱりいつもの万年筆の滑らかな書き心地の方がいいなぁ、この万年筆は使いきったらリピートはなさそうだと思っていた。

 

それから数ヶ月。リピートはしないと思っていた細字の万年筆のカートリッジを追加で購入した。

使いきるまでと使っているうちに、万年筆の書き心地がどんどん変わっていったのだ、それも劇的に。書けば書くほど、万年筆のペン先は馴染んできて、書き心地もしっくりくる滑らかさを感じられるようになった。もう、この角度だぞ、この角度をキープするんだぞ、というような緊張感もなくなり、パッとキャップをとれば何も考えなくても、ピッタリの角度で書けるようになった。

今、新しい万年筆は、ずっと前から知り合いだったかのように、私のノートに収まっている。そんなわけで、カートリッジを追加購入し、これからも使っていこうかなと思っている。

 

 

新しい万年筆を使い始める時は、新しいことを始める時に似ている。

 

新しい期待にワクワクしながら始めるのに、始めてみると今までとは違う圧倒的な違和感に、これはやっぱり違うかもしれないと感じる。

続けていると、ああめんどくさい、やっぱり違う、前の方がよかった、そんな気持ちが出てくる。そして大概、ここでやっぱりやーめた、となってしまうことが多い気がする。

 

でも、この「やっぱちがうわ」という風に思いながらちょっと続けてみると、意外と「ちょっといいかも」という瞬間がやってくる。

 

まぁ続けてみてやっぱり違うと思ったらやめたらいいのだけど、やっぱり違うと思ってから、その「やっぱり違う」の正体を探しながらちょっとだけ続けてみてみるというのは、新しいことを始める時に忘れずにいたいなと思ったのでした。

 


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「クロスバイク」は、自由の象徴だった

社会人3年目くらいの時、クロスバイクを買った。

社内規程もあり、さすがに通勤には使えなかったけど、片道15キロくらいまでは休日の移動も電車からクロスバイクに変えた。

 

クロスバイクで移動するようになると、なんだかとても爽快だった。満員の通勤電車にゆられる平日につかれきっていたから、休日に電車に乗っているとなんとなくそんな平日の延長線にいるような感覚があって、電車に乗らないだけで、気分がよかった。

それに、乗ってしまえば到着時刻も決まっていて、なにか事故や故障があれば私の都合とは関係なく遅れたりする電車と違って、自転車はペースもコースも自分次第。それが、なんとも自由に感じられて、とても気持ちが軽くなったのだ。

 

しかし、妊娠と同時にクロスバイクから遠ざかり、息子が生まれると我が家に新しい自転車、ママチャリさんがやってきた。そして、クロスバイクは自転車置場でカバーがかかったまま数年が経過することになった。

 

そんな中、少し前の有給ひとり時間の日(毎週の計画的週休3日は終了したけれど、今も月に1~3回は週休3日を実践している)、産後初めての映画と温泉に行こうと思いたった。

しかし、両方行ける場所は電車だと乗り換えがめんどくさい。でも自転車だったら20分くらいで着くことがわかった。

それなら久しぶりにクロスバイクに乗ろうと久しぶりにほこりだらけのカバーを外し、雑巾でふき、スプレーをさして出発。

Googleマップを見ながら、初めての場所にクロスバイクで出かけるのはちょっとした探検っぽくてとても楽しかった。

 

それ以来、ひとりでちょっと出かける時にはクロスバイクに乗ることにした。歩いて10分くらいの美容室。電車で2分先のカフェ。

クロスバイクに乗るほどの距離じゃないのに、クロスバイクに乗るだけでひとりの自由時間のような「よっしゃー!」って叫びたくなるような、そんな解放感があって、1.2割増くらいでひとり時間を味わうことができる。

 

クロスバイクは、私にとって自由の象徴なのだ。

 

そんな私にとっての自由の象徴だったり、「わたし」に戻れる過ごし方をもっと見つけていきたいな。

 

「今どきの○○」に気を付けろ

今どきの母親のトンデモ朝食が話題だ。

 

 

息子は3歳。

きっと、というか確実に世間からみたら私も「今どきの母親」だ。

 

息子の朝食は毎日レパートリーを変えて、としたいところではあるけれど、息子の主食はバナナで他のものを残すことが多いという、まぁバナナ食べてたらオッケーかなと思うレベルだし、ご飯を出しても最近は「パンがいいー!」と言われることが多い。

 

食べないよりかは食べた方がいいから、できるだけなにかは食べるようにという風になっていく。まぁきっと我が家と同じ悩みを抱える家も多いのだと想像する。

 

とはいえ、朝食だけとってみたら、親である私の朝食は格段に質があがった。まぁ、質というかなんというか、息子が生まれる前は朝食を食べないことや、朝食はコンビニで買って会社で食べるなんていう生活を長らく続けていたから、家で朝食を食べるようになったことだけでもすごい変化だと思うんですけどね。

 

その時代、その時代にその時の「今どき」はあるわけなので、「今どきの○○」というキーフレーズが出てきたら、ほんとにそうか?を疑い、なぜ変わったのか?という背景を考えたい。 

 

こんな情報も出てきて、イメージだけで捉えがちだなと反省したり。

 

 

「今どきの」という言葉、考えてみるとよく使われるシーンは「今どきの若者は」か「今どきの母親が」がメインで、それだけ若者と母親というのは、世間からの目が厳しくなるのだろうなぁ。

 

そんなことを思いながら、昨日は息子の3歳児健診だったので、終わってから二人で本屋に行ってから、ドーナツ屋さんでふたりでドーナツを食べながら、こんな時間の使い方もたまにはいいなぁー。いつまで一緒にふたりでドーナツ食べてくれるんだろうなぁーなんて思ったのでした。

 

 

スクランブルエッグと息子戦力化計画

3歳になった息子は、最近家事にはまっている。

 

自分で踏み台をもってきて冷蔵庫を開け、「たまごわりたいー!」

 

ボールに卵を割り、砂糖を入れて、菜箸でぐるぐる混ぜる。(だいたい卵の殻が混じってたり、卵はあまり混ざっていない)

フライパンに油をひいて、ガスのスイッチを入れ、一緒にボールの中身をじゃーっといれる。菜箸でぐしゃぐしゃの何回かかき混ぜたら出来上がり。

 

大人1人であればあっという間に出来るだろうし、料理をつくりました、スクランブルエッグです、とは胸をはってはなんとなく言いにくい。

 

しかし、3歳息子の場合、そうではない。

大人の3倍くらいの時間をかけてつくり(私もつきっきりなので工数的には6倍くらいかかっている)、「ぼくがつくったんだよー!」と大威張りである。

 

夫のアレルギーの関係で我が家の卵料理率は高くはなく、信じられないけどなんなら冷蔵庫の中に卵がないということもよくあって、息子もあまり卵を食べてくれなくなっていた。

しかし、自分でつくるようになってからというもの息子はぐしゃぐしゃのスクランブルエッグをよく食べる。なんならお代わりする。(コレステロールとりすぎだから、母としてはやめてほしい)夫には申し訳ないのだけど、息子のおかげで卵も常備するようになった。

 

正直なところ、朝にも夕方にも余裕はない。20分かけてスクランブルエッグをつくるような時間なんてどこにもない。

 

でも、スクランブルエッグくらいでも自分でつくることができたら、もし息子が1人の時でもご飯を食べられる。夫がいなくて私が高熱で動けなくなった時にスクランブルエッグがつくれたら、卵がゆくらいはつくってくれるかもしれない。

 

我が家は、両実家にもなかなか頼れない核家族の共働き。だからこそ、息子が興味をもった時に家事を経験したり、その楽しさを知ってくれることで、息子が家事の戦力として成長してくれたらいいなぁと初期投資のような気持ちでお手伝いをしてもらっている。

 

がんばれ息子!早く戦力になってね!

 

 

 

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