旅するように学ぶ

仕事のこと、夫婦のこと、子育てのこと。日々感じたことや学びをつれづれと。

この半年の大きな変化

このブログを再開しようと思った理由を前回書いたのだけど、そのきっかけをもうすこし書いておこうと思う。

物理的なきっかけは第二子の妊娠にある。

一人目の妊娠中もたいへんだったとは思うのだけど、家に帰って来てほぼ寝ていた記憶があるくらいで当時のことががあまり思い出せない。

家では寝ていたけど親知らずが腫れて半休を1回とった以外は休まず時短もせず残業は減らしたけどふつうに働く妊婦だった。

だけど今回はもう通勤するだけでも精一杯。

夫が家事や息子のお世話をほぼ引き受けてくれたけど、横になっても気持ちが悪くてなかなか休めない。
安定期までの我慢だ…と思っていたけれど、安定期にはいっても気持ち悪さがなくなることはないまま現在に至る。


そんな状況の中で、一人目のときほどの頻度ではないし、すべてを鵜呑みにして不安になるようなことは減ったけれど、ネットの体験談に助けられることはやっぱりあって。

情報の取捨選択は必要だけれど、いわゆるキュレーションメディアの流行り廃りを経て、まとまった情報よりも、ひとりの具体の体験の方が参考になるときってあるような気がしていて。


ひとつのケースとして記録しておけたらいいなと思っています。

「今」を書こう。

久しぶりに、産後そして職場復帰後に書いていたこのブログを読み直して、当時の自分に感謝をした。

子育てしながら働くようになって5年。
正直なところ、記憶喪なんじゃないかと思うくらい当時のことは曖昧で。
ただただ、大変だったなぁよくここまできたなと思う。(遠い目)

だから2回の慣らし保育の状況や復帰して100日間に自分が考えていたことの記録というのは、そのときにしか書けないことだったし、だからこそ今読んでがんばっていた自分をほめてあげたいし、そんな自分に勇気をもらう。

文章を書くのはnoteに移行していたのだけど、まとまっていない、日々流れていってしまうような考え事たちを残しておきたくなったから、久しぶりに更新していこうかなと思っています。

組織とハピネスとAIと。

この前、コルクラボで佐渡島さんが話していたAIとハピネスの話がおもしろかった。

日立製作所ではウェラブル技術をつかってハピネス(幸福感)を計測する研究がされてて、ハピネスが高いと困難に挑戦したくなり、ハピネスが低くなると気晴らしをしたくなるという傾向があるらしい。ほぉ。

例えばチームの中で「挑戦しないと感じる人」がいた時。

「あいつはやる気がない」という決めつけや、「ほら挑戦しろ!」という根性論になりがちだと思う。
(あぁやりがちやりがち…自戒をこめて)

でも、それがもし本人の能力ではないとしたら?


その視点によって見えてくる課題があるような気がした。

ちなみに…この研究では個人の働き方もだけど、チームのハピネスを高めるためのAIの研究もされている。

「ランチの時に誰が誰に話しかけるといい」とか「話をする時の順番はAさん→Bさん→Cさんの順がいい」みたいなことをAIがアドバイスしてくれらしい。なんだそれ。

そしてさらに驚くのはそういうAIからのリコメンド通りにやってみるとチームのハピネスが高まり、生産性が約30倍になったということ。
30倍て…元の生産性も心配しちゃうわ。。

色んな技術が発達し、色んなものが可視化されていく中で、人間関係は、組織は、社会は、コンテンツは、どう変わっていくんだろう。どう変えて行けるんだろう。

佐渡島さんの話を聞いてると、未来をみる視野がぐっと広くなる。

3歳息子とウルトラマンごっこしてる間に週末が終わってびっくりな日曜日の夜。おやすみなさい。

「BEの肩書き」から生まれるもの

TOKYO WORK DESIGN WEEKで、勉強家の兼松さんの話を聞きに行ってきた。Twitterで兼松さんの探求プロセスをみていて、「BEの肩書き」のとこがなんだかずっと気になってたから。


なんでこんなにも気になっていたのかなぁと振り返ってみると、1つにはここ2年半くらい「編集」をいう仕事をするようになって色んな編集者の人に会ったり編集者の本を読んだりしたけれど、知れば知るほど「編集者」がなにをする人なのかよくわからなくなったことが大きいかもしれない。同じ「編集者」という肩書きでもそのスタンスや業務の範囲は人によってまったく違う。

そしてもう1つは、母になってもう3年半もたつというのに、いまだに「母」という肩書きが自分の中でしっくりときていないことがある。現実的に私は「母」であるし、息子と話す時に自分のことを自然と「ママ」と言えるくらいには母に慣れてきているけれど、それでもまだ言葉にできない居心地の悪さがどこかにあるような気がするんだよなぁ。

兼松さんは「DOの肩書き(仕事の肩書き)×BEの肩書き(在り方の肩書き)が仕事の個性を決めるのでは?」ということを話されていた。

 

例えば、詩人のようなデザイナーと、お医者さんのようなデザイナーと冒険家のようなデザイナーがいたとして、みんな同じデザイナーだけど、BEの肩書きによってアウトプットも変わるし、誰に発注するかが変わる」という例をあげていた。そして、兼松さんの「父」というDOの肩書きに対するBEの肩書きはサンタだった。つまりは、サンタのようにペイ・フォワードな父ということ。

そして印象的だったのは近所のお母さんたちを集めてBEの肩書きをつくるワークショップをやったら「お母さんたちがお互いのBEを知り合うことで助け合いが起きた」という事例だった。

話を聞いていて、なるほど私が感じていた居心地の悪さは「母」というDOの肩書きに、外からもってきた「あるべき母像」みたいなBEの肩書きがくっついているからかもしれない…と気がついた。


「BEの肩書き」は、「私は~な人」ということを書き出すことから始まるそうだ。明確な肩書きの言葉がつくりきれなくても、そのプロセスを通して「私は~な人」というBEを共有することは、肩書きや役割ではなく「わたし」として誰かとつながれるということ。社会にでてみると、「わたし」として誰かとつながれる機会は意外と少ないからこそ、そこに生まれるつながりにはとても価値があるように私は思う。

去年から会社でやっている取り組みのひとつに、自分に立ち戻る場所というコンセプトで母になった女性たちが「わたしを主語に語る」というコミュニティづくりがある。
母になるとお互いの子どもの性別と年齢は知っていても、お互いの名前は知らないということや、母になって「わたし」が見えなくなってしまうみたいなことがよく起こる。

だからこそ、わたしを主語に語ることで母になった「わたし」を見つけ、「わたし」として誰かとつながる、そんな経験をしてほしいと思ってきたのだけど、今回兼松さんの話をきいて、つながったその先には、なにが生まれるんだろう。何を生み出すことができるんだろうともうちょっとその先を描いてみたくなった。

 

「~な人」ということを出すために使える質問もいくつか教えてもらったから、まずはちょっと自分のBEの肩書きを考えることから始めてみようと思う。とはいえ、一人で自分に向き合うのってけっこうストイックな感じだから一緒にやりたい人がいたらぜひ教えてほしいです。

 

小さな誤差に気づくこと

先週、抱えていた原稿に煮詰まったので、午後は休暇予定だったこともあり気分転換にプールに行った。

 

午後のプールは比較的空いていて、コースで泳ぐ方たちも気持ちよいマナーな方たちで(コースが限られる区民プールでは、泳ぐペースやスタートのタイミングなど意外と気を遣うのだ)、集中して泳ぐことができた。

 

最初の50mが一番気持ちいい。

体も軽く、水の感覚をとても敏感に捉えることができる。大きなしぶきをあげることなく、静かに進む。

 

それが300mを超えたくらいから様子が変わってくる。

ちょっと息が苦しくなってきて無理やり息継ぎをしたり、焦ってストロークをしたり、しぶきが増え、息継ぎが増え、忙しい泳ぎになる。

 

ストロークが雑になってるなと気づいて、丁寧に伸ばしてみたり、

呼吸が苦しくてバタバタしているなと気づいて息継ぎのタイミングを早めたり。

 

泳いでいる間中、私は自分の泳ぎと自分の状態を観察していた。

 

そして、まだすごく泳ぎが乱れているわけじゃないけど、ちょっと乱れ始めた、そんなタイミングで早めに軌道修正をしたり、泳ぐペースを落としたりする。

 

それによって予定よりもいいペースでさくっと泳ぎすっきりとプールを出た。

 

大きくずれてからの修正はエネルギーがかかるし、疲れきってから休憩すると回復までには時間がかかる。

 

仕事だと、ついつい無理をして詰め込んで、頑張って走ってしまうのだけど、よいペースで走り続けるには、小さな誤差に早めに気づき、調整する。

 

そのことが大切だなと改めて感じたのだった。


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雨の日になると

テンションさがる大人、

テンションあがる子ども。

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