旅するように学ぶ

仕事のこと、夫婦のこと、子育てのこと。日々感じたことや学びをつれづれと。

泳ぎたいけどプールに行く気になれない理由

もう4月になったのに寒いねぇ。お花見はしたいけどピクニックするのにはまだ早いかも。そんな4月の始まりでしたが、ようやく春っぽい陽気になってきた。

 

久しぶりにコートなしで出掛けられてなんだか体だけでなく、心まで少し軽いような気持ちになる。

 

そんな季節には運動がしたくなる。走ることも泳ぐことも寒いからという言い訳で先のばしすることが難しくなる。そんなわけで、定期的にやってくる運動したい熱がここ数日じわじわじわじわとあがってきている。

 

走ろうかなぁ。泳ごうかなぁ。

そんな風に迷っていたら「暑くなってきたから泳げば?」と言われて、「泳ぎたいんだけど…ゴニョゴニョ」と言っているうちに、なんで泳ごう!と思えてなかったのかに気がついた。なんとなくひっかかっていることについて、人はなかなか気付けないんだなぁ。

 

去年、私は何回か泳ぎに行っている。さすがに定期的に通うほどの時間はないから家の近くにある自治体のプールに。泳ぐたびに、私は泳ぐの好きだなぁってしみじみと泳ぐ幸せを感じるくらい、私は泳ぐのが好きだ。

 

水の中はとても静かで、走るよりも心が落ち着く。音楽をかけなくても集中できるし、全身をバランスよく動かすことで体の状態もつかみやすい。

それに、泳ぐのは走る時ほど息が苦しくなったり足が痛くなったりすることはない。筋肉痛には軽くなるけど、走った時ほどではないだろう。泳ぐことは運動不足の体にも負担少なくいい運動ができるのだ。

 

そう、保育園のお迎えに行くために駅の階段を一段飛ばしでかけあがるだけで息切れし、なんなら昨日は足首がピキッとなってしまうような運動不足な私には水泳はぴったりなのである。

 

でも、ひっかかる。泳ぎたいけど、プールに行く気にはなれないのだ。

その理由は自由に泳げないこと。

 

私がプールに行くのはだいたい平日なのだけど、プールはとても混んでいる。最近のシニアの方たちはとてもアクティブで、そんな方たち向けの教室もやっているし、とにかくたくさんの人がいる。

そしてそのためにコースが細かく分けられている。教室用に1コース、水中ウォーキング用に2コース、片道専用コースが往路と復路で2コース、そうすると往復で泳げるコースは1コースもしくはないという時もある。

そして、往復コースも片道専用コースも各コースを少なくても3~4人、多いと5~6人で泳ぐことになる。これがとてもストレスだった。

 

それは、大きなマラソン大会のスタートして人がバラけるまでの全然前に進めない 、周りを見渡しながら、周りのペースに合わせて走らなければいけないという状況に似ている。そして、マラソンの場合は最初の数百メートルだけだけれどもプールという限られた長さを往復する水泳の場合は泳いでいる間、ずっとそれが続くようなものだと思ってほしい。

もしくは街をランニングしている時に、100mごとに信号がある道で、左右の道には抜けることができず、毎回赤信号で止まらなければいけないというものだと思ってもらってもいいかもしれない。

うわっやだなと思うはずである。とにかく、それはリズムが崩されまくるということなのだ。

 

走ることも泳ぐことも、基本的には自分の体と対話しながら、自分のペースで進む競技なのだけど、混んでいるプールではそれができない。 

 

それが泳ぎたいけど、なかなかプールに行く気になれない理由。まぁ理由がわかったところで解決はできないので、

空いてるプール、探そうかなぁ。

最終兵器、餃子。

知らない人はいないであろう、餃子。

私ももちろん嫌いじゃない。1人で中華料理屋に行ったならラーメンを単品で注文すると思うのだけど、誰かと一緒なら餃子を1皿注文してシェアしたいくらいには餃子は好きだ。

 

しかし、人生の中で餃子がこれほど完璧で頼りになる食べ物だということはつい最近まで知らなかった。

 

そのきっかけはもちろん3歳になったばかりの息子である。

 

子どもというのは、得てして野菜を食べない。肉魚で食べられるレパートリーというのは限られている。なんならうちの息子の主食はバナナなのではないかと思っているくらいおかずを食べない。

 

品目数は多い方がよさそうだし、形を変えたり味付けを変えたりいろいろ試行錯誤してみるものの、食べない。というよりも、ポイッとされる日の方が多く、その辺りのやる気みたいなものはあっさりと消え失せた。

 

その結果、保育園の給食で1食は栄養あるものを食べているから家ではまぁ食べたいものを食べたらいいよ。お互いにストレスなくご飯の時間を過ごそう。それがなによりも家庭の平和である。それが我が家の方針になった。

 

そんなある日、異変が起きた。

 

餃子事件である。

 

バナナが主食な息子の餃子との出会いである。

 

夕飯のメインは餃子。とはいえ、どうせ息子は食べないだろうとお飾り程度に息子のお皿に餃子は盛りつつ、テーブルの真ん中に大皿にデデンと並べた餃子を大人ふたりで食べようと思っていた。

 

さっそくいただきます!と、お皿から餃子をとり、タレにちょんちょんとして食べる。うまい!

 

食べ始めたら、それを見ていた息子が「ぼくもそれたべる!ちょんちょんする!」と言い出したのだ。

 

はいはい、どーせ食べないんでしょなんて思いながら、大皿から好きな餃子を選ばせ、息子用にタレを用意したら、食べる食べる。1人で8個近く餃子を食べたのだ。

 

いうまでもないけれど、餃子は完璧な食べ物で、タネにはお肉と野菜がたっぷり入っており、餃子の皮は小麦粉なので炭水化物。餃子だけで、三大栄養素がすべて摂取できるのである。素晴らしい!!

他のものを残そうが、餃子を食べてくれたらオッケーである。

 

そして、餃子の素晴らしいところは、冷凍保管ができて、帰宅してから短時間で調理ができること。フライパンに油をひいてあたためて、冷凍した餃子を乗せて、お水をいれてふたをして、焼いてる間に副菜やスープを準備したらあっという間に夕飯が完成する。神すぎる。

 

そんなわけで、週末にみんなで餃子づくり大会を行い、その日の夕飯とストック用の餃子を冷凍するようになった。先日はふるさと納税の返礼で大量の餃子が届いたこともあり、我が家の夕飯は当面安泰である。ありがたや。

 

帰宅がギリギリだと帰宅してから10分しか夕飯準備の時間がないので、そんな日の最終手段は餃子。

冷凍庫に餃子があるということが、わたしにとってはとても大きい安心感になっている。(最終手段とか言いながら、最近は週1ペースでお世話になっているのはないしょ)

 

ちなみに最近の息子は餃子を1人で10個近く食べるようになって消費スピードが早い。

ということで、そろそろまた餃子大会を開催したいと思う。

 

餃子さん、いつもありがとう!!そして、これからもお世話になります!!

 

 これ読みたい。

 

あと意外と餃子はネットで売っている。

 

 

 

ワンオペ育児で夫婦関係が悪化する原因はコミュニケーション不足ではなかった

夫が転職して、夜のワンオペ育児が始まって2ヶ月。ようやく少しづつ新しい生活リズムにもなれてきた。

 

そんな中で表面的には見えないまま、劇的な何かが起きたわけではないのに、知らぬまに「夫婦関係」は変化していってしまっていた。

 

直接的な原因としては、平日に話をする時間が減ってしまい、お互いの話をしたり、聞いたりすることが物理的にできなくなったこと。

夫が帰ってくる頃にはもう息子をいかに早く寝かしつけるかの佳境になっており、最低限の連絡共有をするので精一杯。夫と話そうとすると息子が焼きもちをやいて会話になってきたりでなかなか話をすることができなくなった。

 

息子が寝てから、久しぶりにふたりで話をして気付いたもうひとつの原因、それは関係のつながり方の強弱が変わることで家族3人の関係性が知らぬ間に変わっていたということだった。

 

出産するまではもちろん家族としての関係は、「夫と私」だった。

そこに息子が生まれて夫婦ふたりの間に息子が加わった。夫と息子、私と息子という一対一の関係もそれぞれあるのだけど、夫は産後に育休を取得したり、残業をやめたりと積極的に家庭にコミットして朝も夜も家にいるときは3人でいることが多かった。だから、関係性としては「夫と私」の関係が強いまま、適宜そこに息子が加わるようなイメージだったのだ。

 

そして、夫が転職し、私は夫と過ごす時間よりも、息子と二人で過ごす時間が増えた。「ママ」として過ごす時間が増えたのだ。

 

それによって私を始点にした家族の中の関係は、「私と息子」という関係が一番強くなり、そこに夫が加わるというような形に変化していた。

 

そして、夫から「なんか最近冷たいね」というフィードバックを受けることとなった。何回か話をして、ようやく原因がわかったのだけど、このまま気付かないでずっといっていたら、どんどん夫との距離は離れていっていたかもしれない。

 

ワンオペ育児自体もとても大変なのだけど、ワンオペ育児にはけっこうインパクトのある弊害がありそうである。

 

出会いと別れの春に考える、属人化と自分らしさと人間関係

春ですね。

 

息子の保育園では、お友達が二人転園し、新しいお友達が三人加わり、担任の先生も二人持ち上がり、もう一人の先生は1歳児クラスの時の先生という安定感ある布陣でした。

 

管理系の部署に長くいた私は、異動や担当変更を経験してはいますが、仕事をする相手は社内の人なので今まで異動でさみしいというようなことはあまりありませんでした。

 

しかし、初めて事業部所属になり、今年の春は大幅な担当変更もあり、初めて、担当変わらず一緒に仕事したいな、一緒に仕事できなくなるのはさみしいなとセンチメンタルな気持ちに。

 

これまでは、「属人化は悪」だと思っていて、誰でも変わらずオペレーションが回るようにするべきだと思っていました。まぁ、今でも、オペレーションは回るべきだと思っているのですが、業務に紐づく「人間関係的なもの」というのは、やはり属人的なものであって。

 

私も相手も、替わりのいない一人の人なので、そこに生まれる関係というものは代替できないものなのです。

 

そして、すべてが代替できてしまったら、私がやる意味ってどこにあるんだろう、産後にはそんなことも感じるようになりました。

 

大好きな増田弥生さんの著者「リーダーは自然体」の中にこんな一節があります。

 

現在、勤めている会社からあなたが去ったとしたら、職場から何が失われますか。

 

担当を離れることで何が失われるんだろう。

 

でも、「さみしいな」と思える関係をつくれたことは、私自身にとっても財産になったし、担当を離れても残る関係がきっと私がつくってきた価値なのかもしれない。

 

と、つれづれセンチメンタルに思いながら、今年もがんばりたいと思います。

 

そして人生は続く。

 

 

リーダーは自然体 無理せず、飾らず、ありのまま (光文社新書)

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「企画」という仕事に必要なたった1つのこと

えらそうなタイトルをつけていますが、企画をつくるノウハウの話ではありません。企画ビギナーの私が、企画をつくれと言われた話です。

 

「企画」というものは、生活の中にも仕事の中にも溢れている。

例えば子どもの誕生日をどんな風にお祝いしようかというのは誕生日の企画だし、お客さん向けにキャンペーンをしようというのも企画です。みんなが無意識にやっていることの中に「企画」という要素はたくさんあるのだ。

 

それなのにそれが「企画という仕事」になった瞬間に、なにから考えたらいいんだろう、なにも思い浮かばない、と固まってしまう。(あれ?もしかしたら私だけ?)

 

そもそも企画ってなんだっけ?

なんかいいフレームワークあるのかな?

なにを考えたらいいんだっけ?

 

上司から「3つ企画を考えてきて」と言われたその日から、私は無限のお悩みループにはまってしまっていた。

 

朝目が覚めてから布団から出るまでの間、通勤電車、仕事中に立ち上がってコピーを取りに歩いてる時、夕飯の準備をしながら、息子の寝かしつけをしながら、なんなら夢の中にまででてくるくらいずっと考えていたけど、アイデアのしっぽみたいなものすら掴めそうにない。やばいなー来週の会議休みたいなという気持ちもよぎる。

 

このままだと間に合わないと、とりあえずお気に入りの万年筆を手に取り、ノートに向かうものの真っ白なままのページ。

 

やばいやばい。何か書かなくちゃと、企画のテーマ的なものを書いてみる。そこから、思い付いた言葉を書いていく。

 

1ページ埋めてみて、絶望的な気分になる。

いろいろ出してみたものの、全然おもしろくないものばかり。これは出せない。

出してもボツにされるだろうな。ちょっと想像するだけでなんて言われるかわかる。「ふつう、だね」って言われるだろうな。

 

おもしろい企画がつくりたい。

ヒットする企画がつくりたい。

でも、いくらノートを見てもヒットのかけらすら見えてこない。私には向いてない気がする。うじうじ考えているうちにどんどん時間はなくなっていく。〆切からは逃げられない。

 

おもしろくなくてもいいから、数で勝負しよう。一発でおもしろい企画を出すみたいな芸当は今の私にはさっぱりできなそうだ。そうなったらたくさん作ってみるしかない。

 

思い付いたアイデア、派生したキーワード、ネットで気になった企画を書いた。ノートに何ページも何ページも書いた。いまいちだなぁ、おもしろくないなぁ、現実的ではないなぁ、そんな風に自分で検閲してしょんぼりする気持ちを味わいながら、とにかく書いた。

 

 とにかく出してみたけど、やっぱり全然おもしろくない。絶望的に発想力がなさすぎる。自分にセンスがなさすぎてへこんだ。そして、こんなことを繰り返している間にあっという間に〆切前日になった。

 

このいけてないアイデアの中から3つ。。内容がしょぼすぎるから、みんなの3倍で10こ企画出そう。そう決めて別の少し大きめのノートに手書きの企画書を書いていく。

 

 1つ選んで、企画のざっくりした概要などを少しだけ具体化していく。10回繰り返すうちに、これはこれとまとめてみるといいかもしれない。これは論点をひっくり返してみた方がいいかもしれない。これは、あのテレビ番組っぽい仕立てにできるかもしれない。

そんな風に肉付けしていく作業になり、なんとなく10個、企画らしきものができた。手書きで書いたそれを今度はパソコン開いて資料にする。その過程で、この要素足してみてもいいかも。この要素が足らないなと追加でリサーチしたり、これはあんまり現実的じゃないかもと気づいたりもした。

 

それでもなんとか、〆切までに10個。企画書というのはおこがましい企画書的なものができた。ホッとした。とりあえずこれで明日の会議には出れる。

そして、10個のうちいくつかは、もう少し具体的に考えて自分がやりたいなと思えるものだったことが、なにより私をホッとさせた。

 

企画らしきものをつくっただけで、まだ実現するかもわからないし、実現してヒットするようななにかになるかもわからない。

 

だけど、まずつくってみるということをやってみて私が、大事だなと思ったことは「自分のしょぼさに負けないこと」だった。

 

どこにでもありふれた平凡なアイデア。そんなしょぼいアイデアしか出てこない自分に悲観しても、そこで考えることをやめず、あと一歩踏ん張って考えてみる。 

 

その一ふんばりが自分の引き出しを地道に増やしたり、考える筋肉を鍛えていくことにつながる。

 

「企画」という仕事を始める時、最初に越えなければいけない壁は、自分のしょぼさに向き合い、それを乗り越えることなんじゃないかと思う。

 

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